最近音楽業界で続く訃報の中で、ライブ中に脳幹出血のため亡くなったBUCK-TICKの櫻井さんのニュースにショックを受けています。
脳幹出血で相当具合が悪かったであろう時に、歌うことを投げ出さず、やりきろうとする意志は並大抵のものではなかったはずです。
そういう意味でご本人も本望だったのではと思うところもあります。
若い頃から変わらずずっとカッコ良かった櫻井さん…
ご冥福をお祈りします。
BUCK-TICKライブ中の発症であったとか、一曲目で転倒、三曲目で倒れ病院に、という細かい様子が報じられると、
自分の脳出血発症の場面を思い出してしまいます。
今まで自分が倒れた時のことは、意識して極力考えないようにしてきたのですが、
これから書くことが高血圧で体調が思わしくない方、心配な方に響くことなのではと、桜井さんのニュースを見て思い始めました。
今までも何度か書こうと思いながら、書けずにきた『あの日』のことを書いてみたいと思います。
先ず わたくし ちゅう の情報として
タバコ…20才(?🤔)から脳出血で倒れるまで
酒…酒好き。ビール、焼酎が好みも、なければなんでも飲む。意識なくすのもしばしば。こちらも20才(?🤔)から脳出血まで
運動…社会人以降はほとんどせず
体重…新入社員時から最大25kg増えたことがある。退院後は新入社員時の体重に戻る
血圧…倒れる頃は 上150〜160とかあった。現在は上110 下65 くらい
まずは、体を壊すことへの序章、社会人になってからのお話をしましょう。
大学卒業後、縁もゆかりもない地方都市が初めての赴任先となり、やる事を見つけられず酒に溺れていきます。
健診の結果が悪くても何年も無視、仕事は一生懸命やったつもりですが、私生活は荒れていました。
当時の同僚をみても、男性社員はみんなこんな感じだったので、そういう環境に流されたというのも正直ありました。
結婚してからは食事の面で、好きなものばかり食べる訳にはいかず、
体重も落ち着き、家の中ではタバコを吸わず、酒も量を減らしていくのですが、
それでもタバコ、酒をやめることは出来ず、『あの日』がやって来ることになります。
ちなみに飲むものは、安い焼酎をストレートとストロング系の酎ハイ。量は多くはないのですが休みはありませんでした。
脳出血の2~3年程前から高血圧が目に付くようになり、実際頭痛やふらつきが出てくるようになりました。
が、それも気にするだけで結局無視。
もし、この時期に動いていれば脳出血を起こさなかったかもしれないし、
もっと軽い症状で済んでいたのかもしれません。
更に、倒れる3ヶ月程前になると、相当ヤバそうな発作 に何度か襲われています。
ちょうど仕事に追われている時で ( 仕事が上手く回らない時で ) 、
落ち着いたら病院に行こう、と考えていたのですが…
この時が脳出血を抑える最後のチャンスだったのだと思います。
このヤバそうな発作 というのは、目の前がグラグラする感じに近いのですが、
正確には、揺れるというよりも上下左右に高速でどつかれる感じで、とても立っていられる状態ではありませんでした。
ガチャガチャのカプセルに入れられ、上下左右にシェイクされる感じかなぁ。
痛みはあったのか、無かったのか正直思い出せないのですが、
それが終わる(落ち着く)まで四つん這いで目をつむり、時間にして多分5分くらい、じっと嫌な汗を出しながら待つしかなかったです。
痛みよりも“やばいやばい”という追い詰められた感が凄くありました。
ヤバいというのが危機であって、それが痛みとも違うものなのですが、死を意識することに近いものなのかなぁと考えています。
実際は強烈な痛みがあったのかも知れませんが、それがわからない程の危機を感じたとしか言い様がありません。
ただ痛みはわからなかったけれども、苦しさは確実にありました。
そんな危険な発作が2回ありました。
1回目は自宅で独りの時、
2回目は同業社との連絡会で居酒屋にいる時
でした。
2回目の居酒屋のときは、車で来ていたので酒は口にせずでしたが、
トイレで吐くような体勢をとり、便座に手を回してじっと堪えました。
この日は発作後も体調がすぐれず、帰りの運転中に何度も軽い目眩を感じたので、コンビニの駐車場で眠り、0時を回ってから落ち着きを取り戻し、家に帰ったのを覚えています。
そしてその数ヶ月後に『あの日』を迎えることになるのですが、それは仕事中、信号のない通行量の少ない道路を運転している時でした。
急に風向きが変わったような感覚で発作がきたと悟り、車を止めようとしたのですが、
ある店舗の広めの駐車場が見えてきたので、そこを目指し運転を続けることにしたのですが、
体の自由が効かず、軟体動物のように、高いところから低いところへ流れるように、シートを滑って落ちていくようなものを感じながら、目的地を目指しました。
何とか商業施設の駐車場に車を止めましたが、上手く白線に収まらず、酷く斜めに止まっていたようです。
車を止めた後は、左手しか動かないと知り左手で会社に電話、状況説明をして人を寄越してもらいました。
その動く左手だけでスマホを操作する事も以外に苦労するものです。
このときの体は、口と目玉、左手だけが動きくだけで、本体はシートに張り付いているだけでした。
今ははっきりと思い出せないのですが、この時も痛みは感じず、以前感じたヤバい危機感もそれほどなかったと思います。
そのかわり、体を壊してしまった、という後悔に近い感情下にあって、元に戻らなかったらどうしようという不安を感じていました。
救急車を呼ぶことになり、現地に来てくれた同僚が呼んでくれたのですが、
救急車の到着と同時に少しづつ意識が薄れ、救急車に載せられたときには、
ちゅうの顔の前で、大きな声で安否確認を何度も繰り返す救急隊員の方が薄く見えるなか、フェイドアウトしてしまいました。
顔近いよ、と思いながら…
意識が戻ったのは移動中の搬送ベットの上。
その状況に気づくのにそれ程時間はかからなかったと思っているのですが、
目を開けることしか出来なかったこと、
顔に白い布のようなものを掛けられていたこと、
を思い出します。
この時、自分は死後の世界にいるから布を掛けられているのか、と恥ずかしながら最初はそう思ったのです。
三途の川 !! だと…
次第にそれは三途の川ではなく、病院の中を移動しているのだとわかってくると、
今度は自分の秘密(DVDとか本とか)が親族に見つかるのが怖くなり、雑なところに隠したことを後悔しながら、
また意識を失ったのをよく覚えています。
薄々わかっている体の問題よりも、仕事や家庭のことよりも、
その時は自分の汚点が知れわたることが不安でしょうがなかったのでしょうか。
次に目覚めた時には、おおまかに病気の状態がわかり、ショックを受けることになるのですが、この辺りから脳出血の症状が始まったのでしょうか、記憶があまり無いのです。
これが『あの日』のこと。
発症時は、自分の体で出来ることや、自分の頭で考えたことをきちんと覚えていたのに、
病院での生活の最初の頃に、自分がどういう感情であったとか、考えていたことの記憶があまりないのです。
記憶の断片が連続性を失った、ということなのでしょうか。ひらがなや漢字を忘れてしまったのと同じように。
そこからは頭と体のリハビリが続いていくわけですが、ただただ病院の皆さんのおかげで今があると思うだけです。
そして、後遺症が半年後に出て来るのですが、残念だったのはもう過去の話。
ただただ ちゅう の雑な生き方が引き起こした因果応報でしかありません。
大病のサインを様々な形で知らせてくれた、自分の体を、大切にしてこなかった ちゅう を反面教師にして欲しいです。
それと、もうひとつ、
秘密はきちんと隠すか処分をしないと、
いざという時に後悔するので、
このことも病気のサインに気づくことと同様、
大切なことであると、
こっそり伝えたい 教えたがりな ちゅう でした。
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