
アントニオ猪木の闘病前はそれほど気にも留めなかったけれど、彼はこんなに心を奮わせる方だったかと、最近になってわかりました。
アバウトにプロレスの昭和、政治活動の平成、闘病の令和という時代の中で、通った道は暗い登り道、でも分かれ道のない真っ直ぐな一本道を確実に踏み、道を造り、道を進み、その頂点にたどり着いたのかな。そしてたどり着いたのなら自分の通った道を振り返ったのかな、と勝手に想像してみました。
この道を行けばどうなるものか。危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足がみちとなり、その一足が道となる。迷わず行けよ、行けばわかるさ。
ちゅう が小学生のころ長州力が好きで、何曜日だったか夜8時から新日本プロレスを見ました。猪木、藤波辰爾らの正規軍、長州や谷津、アニマル浜口らの維新軍の抗争が学校男子の間でブームになっていました。
その後長州はジャンボ鶴田、天龍がいた全日本プロレスへと向かうのですが、ファンは猪木がいた新日本プロレスから全日本プロレスに相当数流れていくことになります。ちゅうにとっても猪木は好きだった長州のライバルという位置付けでありました。
平成になるころスポーツ平和党を立ち上げた猪木への扱いは、マスコミも視聴者もパフォーマンスを期待してのものであってネタ枠扱いに近かったけれど、彼はプロレス時代と同じように一歩、一歩と踏み出し道をつくっていたんだと思います。
本当のファンは彼の人なりを知っていたはずだけど、ちゅうを含め一般人は本当の猪木を正しく理解していなかった。さっきも言ったけれどもマスコミの扱いそのままを猪木のイメージとしたんだと思います。
政治家時代のハイライトは、イラクに人質となった邦人の解放を現地に乗り込み成し遂げたことでしょう。現地で スポーツと平和の祭典 と呼ばれたコンサートやプロレスの試合はイラクの国民に大好評でこれが人質解放に繋がったのかと思います。
北朝鮮との拉致問題においても独自のルートでアプローチ、こちらでも 平和の祭典 をプロデュース、北朝鮮の国民を喜ばせたようです。
自身の行動力で道を開き、窮地を脱し、成功を掴みとるやり方は誰しもが出来るやり方ではないでしょう。でも彼とて全て成功したわけではなく、たくさんの涙、たくさんの失敗、そんなたくさんの苦い経験があるから、ここぞの時に力を発揮出来たのではないかと推測できます。
ただイラクでの人質解放は正に命をかけたもの。一生懸命やりましたが出来ませんでした、では許されないのですから。猪木でなければ飛び込んでいい案件ではなかったのですね。結果論ですが。
晩年の猪木は病気との戦い。自分の病気、弱さをあえて公開する彼に、昔からのファンはどういう気持ちなのかと思いましたが杞憂でした。
猪木もそうですが彼を信じるファンも凄いです。考え方が近付いていくのでしょうか。ヤフコメを見てもファンの言葉がとても熱い。これも猪木の人柄だからなんだと思いました。昔からどうして猪木のファンはこんなに狂信的なのかと思っていたのですが、今はわかるような気がするのです。
彼がいなくなった世界は未だ戦争がありたくさんの対立、憎悪が蔓延しています。更にイレギュラーな指導者もおり不安定なバランスの中で生活しています。
イレギュラーな指導者がいる不安な世界には、イレギュラーだけども自己犠牲も厭わない正義のヒーローがいて欲しいと本気で思う ちゅう でした。
天国では安らかにお過ごしください。そして何よりも元気でいてください。合掌。
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